車両価格
500万円
( 成約手数料込 527.5万円 )

ボルボ史に燦然と輝く“デザインモデル”

戦後、自動車の生産が飛躍的に伸びようとしていた頃、人々の関心は常にニューモデルに向くと同時にスポーツタイプのモデルにも憧れを抱くようになっていました。そのため各メーカーは一人でも多くの関心を自身のショールームに向けさせるべく、「客寄せパンダ」を兼ねたスポーツモデルの開発に取り組みます。スポーツカーはまた、当時から大きな市場であった北米、特に西海岸での拡販も見込める有望な商材でもあったのです。

北欧の雄ボルボも例外ではありませんでした。1954年、ボルボはスポーツ(P1900)という2ドアオープンカーを発表します。シボレーコルベットなどと同様に当時の最先端素材であるグラスファイバー強化樹脂をボディ素材に使った革新的なスポーツカーでした。

ところがその品質には問題が多数あり、当時の社長グンナー・エンゲラウはすぐさま生産にストップをかけます。「ボルボとしてはよくないクルマだ」と彼に酷評されたスポーツP1900は結局、予定されていた台数の6分の1強(68/300台)で生産を終えてしまいました。

ところがボルボは諦めません。ディーラーからの強い要望もあって引き続きスポーツモデルの計画を模索します。そうして1960年に発表されたのが1800シリーズでした。

今なお個性あふれる2ドアクーペスタイルの誕生には時代を感じさせる愉快な物語があります。社長のエンゲラウはイタリアンデザインであることを強く望んでいました。 そこで有名なカロッツェリアであるギア社にデザインスタジオごと収まっていたピエトロ・フルアにデザイン案を発注します。この時フルアにはボルボの元開発責任者(PV444)でありコンサルタントとして活動していたヘルマー・ペターソンの息子ペレが見習いデザイナーとしてフルアのスタジオに入社していました。

フルアからは最終的に4つのデザイン案が提出されましたが、そこにヘルマーが息子ペレの描いた第5の案をこっそり潜り込ませたのです。そしてなんとニューヨークで工業デザインを学んでいたペレの案がそうとは知らないボルボ経営陣の目に留まってしまいました。ピエトロ・フルアの手助けにとって磨き上げられたペレの案が正式に採用されると、57年から58年にかけフルアによって3台の試作車が作られます。

次に問題となったのが生産工場の確保でした。ボルボはちょうど成長期に入っておりスウェーデンの工場に余力はありません。そこで父ヘルマーはドイツのカルマンに目をつけ、58年中の生産に向けて交渉に入るも失敗に終わります。当時のカルマンといえばVWが最大のスポンサーであり、ビートルコンバーチブルやその名もカルマンギアクーペを生産していたのです。ボルボの新型スポーツカーは、イタリアンデザインでドイツ生産、北米拡販という意味において、VWにおけるカルマンギアと同じ立ち位置でした。

カルマンとの交渉がご破算になると、次第にボルボはP1800の生産に興味を無くします。そこで三度ヘルマーが活躍しました。息子のために親父は必死に頑張った(のかどうか)。英国の2つの会社(プレスドスティール社と、かのジェンセン社)に渡りをつけ、ついに61年、最初のP1800がラインオフします。結果的にこの3年間の発売遅れがP1800の中身を“古くさせた”感が否めません。

最初の6000台は英国ジェンセン社で組み立てられましたが、63年にはボディ生産(プレスドスティール)以外をスウェーデン(ゴーセンバーグ)に移行。車名もP1800Sと改められます(Sはスウェーデンのイニシャル)。ボディ生産がスウェーデンで行われるのは69年以降のこと。また同じく69年には1.8リッターから2リッターへと排気量もアップしましたが、なぜか車名にはそのまま1800を踏襲しました。

70年には機械式燃料噴射装置を備えたP1800Eへと進化。さらに72年にはアメリカでの排ガス規制を睨んだ低公害対策エンジンを搭載します。

72年にはもう一つ、大きなニュースがありました。それがP1800ES、通称“フィッシュバン”の登場です。クーペのボディ後半をそのままストレッチした、いわゆるシューティングブレークスタイルの2ドアワゴン。特徴的なリアガラスハッチデザインはその後のボルボデザインにも大きな影響を与えました。この時も実はデザイン案をイタリアに求めましたが、結局社内デザインに落ち着いたと言います。またオートマティックトランスミッション仕様が追加されたのもこの頃でした。

クーペが結局72年でその生産を終えたため73年にはP1800ESのみとなり、そのまま61年から続いた歴史にピリオドを打つことに。クーペは約4.8万台生産されましたが、エステートのESは2年弱の間にわずか8000台あまりという生産台数に終わっています。

ちなみに話をもとに戻すと、クーペのデザイン原案が実は“スウェーデンの身内”の作品だと知ったエンゲラウ社長は「騙された!彼(ペレ)をカーデザイナーとして絶対に認めない」、と激怒したのだそうです。結局、ボルボがP1800のデザインをフルアではなくペレ・ペターソンの作品だと認めたのはつい最近のことでした。そしてペレ自身はその後、クルマではなくボートデザイナーとして活躍することになったのです。


西川淳の、この個体ここに注目!

1972式の右ハンドル+マニュアルトランスミッションという非常に珍しいコンビネーションのP1800ESです。現オーナーが2年前に知り合いのカーショップで手に入れました。確認は取れていませんが、右ハンドル・型式取得・生産年登録(1972年11月)でスカンジナビアンモータース(ヤナセ系列、旧北欧自動車)のプレートが貼ってあることからおそらくディーラー車両であると推測されます。

外装色は少し紫がかったブラックでこれはリペイントです。本来のカラーはサファイアブルーという明るい水色であったことがカラーコード(108)から判明しました。インテリアはオリジナルコンビネーションの黒革に青いカーペット(449-822)。サファイアブルーにはこのインテリアカラーの組み合わせしかなく、またこの組み合わせの内外装色を持つP1800ES は1972年にのみ生産されています。

オドメーターは7300kmを指していますがレザーやペダルなどの劣化からみて、おそらく実走行距離ではありません(ので不明と判断します)。外装のコンディションはバンパーのゴム部品などに経年劣化が見受けられメッキパーツ(ドアハンドルなど)には浮きがあるものの、全体的には良好だと思います。

インテリアではダッシュボードの張り替えとノンオリジナルのハンドルおよびABCペダルがマイナスポイント。運転席にひび割れが見受けられますがその他はルーフライナーも含め年式相応の雰囲気です。クーラーも効きました。

エンジンは一発始動。アイドリングも安定しています。オーナー様のガレージ敷地内で少し動かしましたが、機関系の調子は良さそう。ステアリングホイールが重いことで有名なP1800ですが、重いなんてものじゃない。腕力自慢のエンスーにぜひお試しいただきたく。

オリジナルカラーに戻してあげるのも一興か、と。明るい水色のP1800ESなんて、想像するだけでも洒落ています。

車両スペック

年式1972
初年度197211
排気量1,986cc
走行距離
ミッション4MT
ハンドル
カラー濃紫系ブラック
シャーシーNo1834352WOO2037
エンジンNo466
車検なし
出品地域大阪府
  • レポートは売り主さまへのヒアリングと現車の視認を元に構成されており、必ずしも掲載内容の裏付けが取れている訳ではありません。CARZYは掲載内容の正確性・無謬性を何ら保証しません。
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